ルパシカ、サラファン等ロシアファッションについて紹介するブログです。
ロシア ファッション ヒストリー ルパシカ4 からの続きです。
ロシア帝政時代、1760年代当時の婦人服の状況についても少し記述しておきましょう。
この時代の衣装は、芸術家のフェルメールによるサラ・エレノアの肖像画で代表される、壮麗荘厳なものです。この写真だけからはわかりませんが、紳士のファッションと同様、ヘアスタイル、帽子が特徴で、コサージュもよく使われていました。
男性の衣装だけでなく、婦人用のものにも豊かな仕上げ、高価な輸入生地が取り入れられました。金糸、銀糸、貴石・宝石類、薄いレースなどがみられます。興味深いことに、こうした贅沢はしばしば、貴族の破産につながりました。例えばゴーゴリの小説「死せる魂」には落ちぶれ貴族で破産する登場人物がたびたび出てきます。
貴族の栄華は農民からの残忍な搾取に基づいており、農民からすればこのような無駄使いが目に余るものがありました。小作農と貴族の間の関係が悪化するほどの状況となり、エカテリーナ2世は、高価な生地、宝石類の仕様を禁止する法令を発布したほどです。エカテリーナ2世は真の意味での治政者だったんですね。
ピョートル大帝のように、エカテリーナ2世も衣服に関する法令を様々発布していますが、法規制の方向性はピョートル大帝と異なります。その一つに、ロシア風スタイルへの回帰です。彼女は宮廷の女性に対して、ロシア伝統の衣装、サラファンとココシュニック(装飾の施された大きいカチューシャのようなもの)着用の義務付けという、貴族階級から衣装の形を規定しました。ロシア的なサラファンが定着したのはこのころからです。 宮廷の女性の着るサラファンの生地はある程度高価なもので、コサージュがあしらわれます。ココシュニクは派手な大きなものではなく、小ぶりなものです。靴は革、シルク、ブロケードのハイヒールの靴で多くの装飾アイテムで飾られました。特に厳粛なイベントの際は、衣装やココシュニックに真珠と貴石で刺繍され、靴は赤いヒールを用いることもできました。このようなロシア的で優雅なスタイルは、「ココシュニクの少女、未知の肖像」などの女性の肖像画のシリーズを書いた画家アルグノフの作品に反映されています。
ロシアは、1790年代に、フランス革命時代のファッションの影響を受けることになります。高いウエストの薄いドレス、カールやギリシャの結び目を持つヘアスタイル、かかとのない柔らかい靴を着用し始めます。このような衣装は、「ボロヴィコフスキー」(「M.ロプヒナの肖像」、「ガガーリン姉妹の肖像」)の肖像画で見ることができます。
1700年から1725年までですが、ピョートル大帝の法令により、市民はロシア風の衣装をを着用することは許されませんでした。しかし、その基本形状への愛着は、特に中流、下流の中で根強く残っていました。ピョートル大帝の死後、多くの商人や町民が民族衣装を着始めるのですが、純粋なロシアモデルへの直接的な回帰ではなく、西洋の名残を有したものとなりました。ロシアの男性のファッションが形成され始め、 商人や町の人々のファッションが、19世紀半ばまでに固定されることになります。これら一般市民の紳士服のファッションには、貴族のファッションの借り物が追加されています。例えば、これらは左に留め金を持つ長いコート、背中のカットに見られます。長い服だけがそれを着るものに尊厳を与えるという考えが根強く、商人や町の人々は短いコートや上着を着用したことがない、というのも特徴です。
ロシアの生活を研究した外国人I.ジョージは、1770年に「古代の衣装のほとんどの部分が、ロシアの商人やブルジョアの間に保存された。ゲルマン風のシルクの布を頭に結ぶ姿や、トルコ風のターバンなども見られた」と記録しています。ロシアの記録に外国人I.ジョージとしかないのは、当時はロシア人にとって、国とは、ロシアとそれ以外のヨーロッパおよびアジアのどこかという区分けしかなかったことがみられるところがまた面白いところです。ブログ筆者も小学生になる前は外国とアメリカが同義語だと思っていたので、昔のロシアを笑えません。
18世紀のロシアの衣装は、一般的なヨーロッパのファッションアイテムが取り入れられているファッションです。パリとロンドンから、完成品という形で輸入されるか、海外で注文され、それがロシアの最も裕福な貴族によってロシアにもたらされました。
当時はファッション雑誌というものが存在せず、衣装のファッションイノベーションに関する情報は、«Трудолюбивая пчела»,「勤勉なハチ」 «Всякая всячина»「すべて」, «Магазин общеполезных знаний»「一般的かつ有用な知識」 という一般の人気雑誌に掲載され、情報が共有されました。
ただし、18世紀のロシアファッションへの影響は、貴族の服に対しての、国家の法令がもたらしたものです。1782年エカテリーナ2世は、3つの法令を発布しました。一つ目は上述した「宮廷における女性の身の回りについて」です。それは「よりシンプルで質素な形」を推奨し、ドレスに9センチ以上幅広い金と銀の縫製やレースで仕上げること、ココシュニック、髪飾りや帽子の高さも9センチ以上を禁止しました。第二の法令では、貴族(男女とも)は、首都に来る際、それぞれの貴族の州に割り当てられている柄の衣装で訪問することが求められました。例えば、サンクトペテルブルク州の貴族の制服は、黒いベルベット襟、水色のコートを着用せねばならず、モスクワ州 では、暗い灰色のコート、彼らの妻と娘の衣装は赤いサラファンであることなどです。第三の法令としては 、目的に応じた 衣装を定めたことです。男女とも、宮殿へ来る際と、休日に着る衣装は厳格に定められていました。そしてすべての生地はロシア製でなければなりません。
面白い話が残されています。当時、フランス革命があり、そのファッションがロシアに押し寄せてきました。サンクトペテルブルクの路上に登場したファッション、妙に高い襟のコート、派手なベスト、大きな折れ目のついたブーツなどですが、これらをエカテリーナ2世は軽蔑し嘲笑していたと言います。そして、それがいかに不可解な、異様なものであるかを市民に強調するために、似たようなファッションを警察官のユニフォームに取り入れ、警察官からの不満や、市民からの不評を意図的に巻き起こしたと言うのです。
エカテリーナ2世は、日本の豊臣秀吉とか徳川家康のごとく、ロシアでも何度も歴史小説や長編テレビドラマに取り上げらていますが、逸話の多さといい、その面白さといい、本当に興味深い皇帝ですね。
さて付け足し見たいになってしまいますが、エカテリーナ2世後の話です。
エカテリーナ2世の後、1796年権力を引き継いだ息子のパーヴェル1世は、上流階級において、ヨーロッパ的な長いコート、ラウンドハット、ショートヘアカット、ロングパンタロンのすべてを禁止し、さらなるロシア回帰を進めました。パーヴェル1世の短い憲政(5年間)の間、ロシアの貴族は古いロシアの仮面舞踏会のように、昔ながらの衣装を着なければならりませんでした。しかし、このような法規制はもはやロシアのファッションの発展を止めることはできず、彼の死後、ロシアのファッションは急速に近代化していきます。
さらにお話は続きます。よろしければ次回のブログもお楽しみください。ロシアファッションヒストリー6
参考文献およびウェブサイト(すべてロシア語です):
・https://russian7.ru/post/kak-poyavilas-kosovorotka-u-russkikh/
・https://vrns.ru/analytics/1394
・R.V.サハルジェフスカヤ「衣装の «歴史:古代から近代へ
・カミンスキーN.M.「コスチュームの歴史」
・Далю(ダーリョ)「Толковый словарь живого великорусского языка」
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